大石邦子の心の旅

野球少年

雪の前のつかの間の華やぎを見せて、山々は赤く色づき、高く行く雲の白さは青春の息吹のようにも見えてくる。

家の近くに市営球場がある。最近まで東北地区高校野球大会の、会津地区予選でにぎわっていた。ここで勝ち抜き、県大会で勝ち抜き、いよいよ東北大会で優勝すれば、第90回記念大会となる「春の甲子園」の選抜も夢ではなくなってくるらしい。甲子園は野球少年たち全ての夢であるだろう。

私は高校野球が大好きで、負けても勝ってもいい。あの一生懸命さが、私の中のもやもや感を吹っ切らせ、力を与えてくれるのだ。

大分前のことだが、私が10年ほどの療養生活を終えて自宅に戻ると、家の斜め向かいに写真館ができていた。素敵な若いご夫妻の店で、須田さんと言った。

ご主人は写真館の傍ら、母校である高校の野球部監督をされていた。彼もまた、子どもの頃は甲子園を夢みる野球少年だったという。あれから何十年経つだろう。

3年前、彼は夏の甲子園・全国高等学校選抜野球大会の席上、東北からただ一人、高校野球への功労者として全国表彰を受けた。その話を奥様から聞かされたとき、私は思わず涙がでそうになった。

彼は昭和38年、地元の県立高校に入学した。早速野球部に入り、投手の卵として先輩たちと共に練習に励んだ。初めての硬球、いかに手になじませるか、どうすれば変化球を投げられるか、試行錯誤を繰り返しながら夏の大会に向けて黙々と投げ込みを続けた。

ある日、親友がバッターボックスに立った。とびっきりの好球を投げたつもりだった。ところが手元が狂ったか、球は親友の頭を直撃、直ちに病院に運ばれ懸命の処置を施されたが、再び息を吹き返すことはなかった。

親友の亡骸を前に、息が止まりそうだった。全身が痺れ、詫びても詫びきれない高校生の彼には、自分も死んでお詫びする以外、何も考えられなかった。そんな彼に、親友の両親が静かに言葉をかけてきた。

「悲しいけれど、ボールをぶつけてしまった貴方も、どれほど辛いか…。早く忘れて、息子の分まで、野球に打ち込んで…」

責め立てられるより哀しく辛い救いの言葉だった。これからはどんな時にも亡き友を心に生きてゆく。そう決心した彼は、再びユニフォームに腕を通し、大学でも野球を続けた。

イラストイメージ昭和44年、大学を卒業した彼は、二度と自分のような事故を誰にも起こさせないために人生を懸けると、母校の監督を引き受けた。

以来40年余、彼は高校生たちに、技術のみならず、人間としての在り方、共に生きる心構え等々、野球を通して導き続けてくれたのだと,かつての教え子たちは今なお監督を慕ってやまない。その姿勢こそが高く評価され、3年前の全国表彰となったのだと思う。

しかし昨年、彼は突然死去。その葬儀は信じられないほど大勢の、かつての野球少年たちに見守られてのものだったという。

今日もまた空の高みを、白い雲が行く。

(2017年10月記)
審J2005099

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。