大石邦子の心の旅

声なき声を

私の奥の部屋の床の間に、この30年間一度も替えられずに架かっている掛軸がある。友人が、別れの記念にと贈ってくれたものである。

彼女は若い数学の教師だった。誰からも好かれていた。ある時、彼女が言った。
「何か心に残る大切な言葉って、ある?あったら教えて」
何故と思ったが、私は即答した。「眼聴耳視・がんちょうじし」

それから一月ほどたって、彼女は一本の掛軸を持ってきた。彼女は書も師範格で、東京の先生について学んでいた。そのお師匠さんに頼んで書いて貰ったのだという。そこには「眼聴耳視」、と書かれていた。

彼女が、北海道は函館のトラピスチヌ修道院に入ることを知ったのは、その時だった。彼女の家は熱心なクリスチャンの家庭だった。修道院は、若いうちでないと入れない。

平成元年の春、彼女は私たちの戸惑いを後に、祈りと労働の地へと旅立って行った。

イラストイメージ時々、私はこの掛軸の前で想いに耽る。何かあると、ここに来る。この言葉を教えて下さったのは、盲目の詩人・佐藤浩先生だった。

先生は、旧制の中学時代に、鉄棒の事故で左目を失明した。右目を頼りに東京歯科医専に進むが、その視力も日に日に失われ、歯科医の道も断念せざるを得なかった。

失意のうちに帰郷した彼を支えたのは、かつての幼馴染たちだった。詩をも書いていた彼の生きる道として、4人の仲間は児童詩の啓蒙誌を考え、発刊に名を連ねた。日本初の月刊児童詩誌「青い窓」の誕生だった。

彼らは詩を募集し、編集し、仲間の一人は郡山市の和菓子の老舗「柏屋」の若主人で、企業文化活動の一環と称し、創刊60周年に至る現在も「青い窓」のスポンサーである。代が変わっても、変わらない。男の友情を想う。

私が先生と出会ったのは昭和58年、先生は「青い窓」の主宰者として、詩の指導や講演、ラジオにと多忙を極めていた。

それでも、若くして車椅子になった私への不憫さもあってか、ことあるごとに電話を下さり、他愛無いおしゃべりの中で、生きる知恵を、力を与えて下さった。特に道元禅師の言葉「眼聴耳視」の話は忘れられない。

詩もエッセイも、「眼で聴いて、耳で視る」心の深さがあってこそ、読む人の心を打つものになる。見えないものを見ようとし、聴こえないものを聴こうとする中から、深い文章は生まれてくるのだと。

これは文学によらず、むしろ私たちの生き方そのものに問われていることなのだと思い、私も「声なき声を」受け止められるような人になりたいと、胸に深く刻んだ。

先生が亡くなられたのは、私がガンの手術で入院していた平成20年10月10日、「青い窓」創刊50年の年だった。

あれから10年、今年の先生の命日には、創刊60周年の記念行事が行われるという。心の眼で生きた先生だった。

私は今日も掛け軸の前に立っている。

(2018年8月記)
審J2005101

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。