大石邦子の心の旅

想い出を力に

連日報じられる米カリフォルニア州の山火事は、 いつ消し止められるのだろう。

死者の数も日に日に増え、今日のニュースでは44人とあった。避難を余儀なくされた人が26万人。行方不明者は200人を超えるという。炎のなかを逃げ惑う人の、どれほど怖かったことか。

比べ物にはならないが、昨年私の近所でも大きな火事があった。暁闇の空を破って燃え盛る炎が蘇ってくる。亡母の教え子であった斜め向かいの奥さんは焼死。彼女は足が悪かったので逃げ遅れたのだと思う。
ブルーのビニールシートに囲われ、焼け跡から運び出される姿に、風向きが違っていたら確実に私の姿だったろうと思うと、申し訳なさが込み上げてきた。私たちには逃げようがない。

2008年、私は旅の友達に説き伏せられて、アメリカ大陸横断を決行した。野垂れ死に覚悟の旅だった。サンフランシスコからニューヨークまで、レンタカーで14日間をかけて走り抜いた。

イラストイメージ聞いたこともない町ばかりを走り抜けていった。アメリカと言えば大都会、との知識しかなかったが、全く違う普通の静かな町や村が点在していた。とにかく山脈と平原が果てしなく続く大地で、真っ直ぐな道が空に続き、空に向かって走り続けた。今、燃え続けている山火事は、その時最初に越えた山脈・シエラネバダの麓と知って、堪らない気持ちになった。忘れかけていた風光が思い出されてくる。

シエラネバダ山脈を越え、ロッキー山脈を越え、アパラチア山脈を越えての7000キロの旅だった。

幸い、サンフランシスコには知り合いがいた。いるというだけで、無謀とも思える旅の決心がついたのかもしれない。

彼は、私のお茶の先生の息子さんで、大手の商社マンだったが、アメリカ駐在時代に会社を辞めて、日本人街にラーメン屋「たんぽぽ」を開いた。

私が先生の紹介で、初めて訪ねた頃は、小さなカウンターだけの店だった。ところが2008年には、場所も変わり、立派なレストランになっていた。看板だけは同じだった。

この看板は,今は亡き映画監督の伊丹十三さん直筆の書。伊丹さんが偶々立ち寄ったサンフランシスコのラーメン屋で、酒の肴にアメリカでラーメン屋を始めるに至った経緯を聞きながら、いつしか心打たれたものか店名「たんぽぽ」と書き残していったのだという。

やがて、彼をモデルにした映画「たんぽぽ」が製作され、俳優の山崎努、渡辺謙、伊丹十三の奥さんである宮本信子さん達が演じている。

アメリカでは「ラーメンウェスタン」という名だったらしく、相当古い映画なのに、最近また上映され始めたという。

余りに痛ましいカリフォルニアの山火事に重なって、遥かな想い出が息を吹き返してきた。人は年を取るが、想い出は年を取らない。

私はもう冒険はできないが、想い出を力に生きている。

(2018年11月記)
審J2005102

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。