大石邦子の心の旅

菜の花畑

新しい時代の幕開けである。
「平成」から「令和」へ、二日間にわたる皇位継承の儀式をテレビで見た。何よりも新皇后の雅子さまがお元気そうで、ゆったりと穏やかな気持ちで見ることが出来た。お辛い闘病だったと思う。
これからも、両陛下のご健康とご無事を祈りたい。
私たちの国と、日本国民統合の象徴としての責務を負われる天皇である。皇后さまの微笑みが何よりの力だと思う。

十日間の大連休が終わったのち、友人夫妻がドライブに誘ってくれた。車椅子の私を、友人たちは時々誘ってくれる。私は車が大好きで、助手席に座らせてもらうと、刻々と変わる景色に鬱々たる思いなどあってもすぐに吹き飛んでしまう。
美しい5月の空の下、車は街を外れて会津平野を突っ切るように走った。友人夫妻は長いこと病院に勤めていたが、退職と同時に休耕地を借り受けて畑を始めた。長年の夢だったという。
その畑はなだらかな丘にあった。ここからの景色を見せてやりたかったのだと思う。私は息を呑んだ。正面に会津磐梯山が聳え、左手には飯豊連峰の白い山脈が耀き、右に目をやると遠く那須の山々までも霞んで見えた。
そして、私たちの眼下に広がる眩しいばかりの広大な菜の花畑である。涙がでそうだった。遠い記憶が甦ってくる。
確かに、私が子どもの頃は家の周りも菜の花でいっぱいだった。観賞用ではなく、どこの家も菜種油を絞るための菜種を植えていた。しかし私が高校生の頃には全く無くなっていた。
日本が高度成長期に入りかけた頃からか、貿易の自由化で外国産の菜種が安く入手できるようになったからなのだろう。
けれども、私の中では5月になるといつも菜の花が咲いた。

私の亡母は隣村の小学校の教員をしていた。当時は子どもができても、生まれる日まで教壇に立つのが常だったようで、私の時も、2時間目の教壇でお腹が痛みだし、急遽早退して家路を急いだのだという。
学校までの道の両側は一面の菜の花畑で、母は花の間を縫うように道を急ぎながら、お腹の赤ちゃんが黄に染まってしまいそうだったと、それは見たこともないように美しい菜の花だったと、何度も幼い私に話してくれた。いや、私がせがんでは話させたのかもしれない。
その話には続きがあった。帰路を急ぐ母の前に、脇の小川から飛び跳ねてしまったのか、大きな鯉が跳ねていた。
食べるものに事欠く時代だった。母は神様からの贈り物とばかりに持ち帰ろうとしたが、ふと手が止まった。これから赤ちゃんが生まれるのに殺生はいけない。母は片手でお腹を押さえながら、鯉を小川に放してやったのだという。その日、私は生まれた。父も母も、もうこの世にはいないが、私の中には生きている。もうすぐ令和初の5月28日、私の誕生日である。
お母さん、今年も菜の花がきれいです。

(2019年5月記)
審J1907067

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。