大石邦子の心の旅

不覚の涙

これが日本の気象なのかと、唖然とするばかりの台風15号、19号は、日本列島に深い傷跡を残して去った。

考えられないほどの大雨、暴風、堤防の決壊、土砂崩れ、停電、断水等々。今回もまた多くの犠牲者を生み、生活基盤を破壊した。

天皇陛下の即位の儀が行われた10月22日も、土砂降りだった。平安絵巻さながらの様子をテレビで見た。皇居正殿松の間に組まれた「高御座」と「御帳台」の幕が開く。新天皇と十二単の皇后さまが現れる。

テレビは空を映した。儀式が終わるのと同時に雨がやみ、青空が垣間見え、虹が立った。偶然と言えば偶然、驚きと言えば驚きだった。

イラストイメージ 懐かしい「正殿松の間」。一度だけ招かれたことがある。昭和58年「新年歌会始の儀」である。ただ、私は歌で招かれたわけではない。何故だか未だにわからないのだが、招待状は宮内庁の式部官長名だった。

「陪聴者として」とあった。天皇の傍らに侍って、共に歌を聴く人らしい。衣服は礼装とのことで、長年病衣のパジャマで過ごしてきた私に衣服のたしなみ等ある筈もなく、まともな服も持っていなかった。
急遽、東京の妹がデパートで用意してくれた。今でも恥ずかしいシルクのロングドレス。

当日、私は姉と妹に付き添われて皇居に向かった。北車寄せで車を降り、広いロビーに入ると、付き添いはそこ迄で、私は金ボタンの衛士に引き渡された。

衛士は私の車椅子を押し、控室の長和殿に上り、長和殿と中庭を挟んで平行に立つ正殿の中央に松の間はあった。

松の間では、正面に紫の屏風を背に天皇が座し、両側に皇族方が並ばれた。陪聴者は東西に並び、入選者は天皇と向き合う形で入り口側に並んだ。

朗々と歌が吟じられてゆく。そんな中、不覚にも闘病中の苦しかった時代が私の脳裏を過った。薬も食事も拒否し、母に当たり散らしていた日々。

「もう私の人生なんか何もかも全て終わりよ!」
泣き叫ぶ私に、母は涙ぐみながら言った。
「何もかも終わりっていうことは、何もかも全て新しく始まるってことでもあるでしょう」
「何が始まるというの、こんな体に!」

私は怒りに震えながら頭が破裂しそうだった。
それでも、どこかで言葉にしない母の悲しみが堰を切ったように流れるのを感じていた。

母こそが、全てを犠牲にして私のために生きていた。こんな筈ではなかっただろう。それでも愚痴ひとつ言わず、誰をも責めず、この娘を残しては死ねないという一念で生きていた。涙がこぼれた。

母の言葉は真実だった。父母への遺書のつもりで書いたものが講談社に拾われて本になり、書くことを覚え、車椅子に乗れるようになり、旅にも出た。そして今を生きている。

「正殿松の間」と見聞きする度に、あの時のあの、不覚の涙を想い出す。土砂降りの人生にも、新たな朝は巡ってきて…。

(2019年11月記)
審J1912176

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。