大石邦子の心の旅

2枚の写真

この冬初めてだった。朝のカーテンを開けると、家のガラス戸が天窓も含め、全て吹きつけられた雪で何も見えなくなっていた。

外は吹雪いているのか、家の前はどうなっているのか、何の音もしない。ひとり閉ざされているような孤立感から抜け出したくて、必死で凍りついた戸を開けようとしても、ビクともしない。

イラストイメージ 私は何かに縋るような思いで、新聞受けに走った。何と、新聞が届いているではないか。パジャマの胸に抱きしめた冷え切った新聞が、何だか温かく感じられる。

新聞配達の人は、この雪の中をここまで来てくれたのだ。新聞はいつも寝ているうちに届くので、どういう方が来て下さっているのかは分からなかったが、人と繋がっていられると感じられる想いに涙が出そうだった。

それにしても寒い。ウクライナは、もっと寒いかもしれない。そんな中で、ウクライナの人々は街を破壊され、愛する人を失い、暖房も、クリスマスも新年もなく戦っているのだと思うと、弱音なんか吐いてはいられないと、自分に活を入れるようにパジャマを脱いだ。

そんな折、元NHKアナウンサーの末先生から、衝撃的な手紙が届いた。日本の歴史を考察している先生の、大事な資料の一つかもしれない2枚の写真が入っていた。

1枚は、第二次世界大戦の終戦直前、昭和20年7月に、北海道は本別町の空から撒かれたという「降伏勧告状」のコピーだった。

本別町は、以前講演で呼んで頂いたことがあり懐かしかったが、この勧告状は、東京など多くの都市部でも撒かれ、政府からは、このビラを拾った者は読まずに警察に届けるよう、指示されていたのだという。だから、まだ少年だった末先生も、敢えて読まなかったという。

米国トルーマン大統領写真入りの、日本国民に向けた声明文である。初めて見た。誰が書いたのだろう。達筆な毛筆の文語体の文章である。

日本軍部へ降伏を迫る文言だが「一般国民の艱難辛苦に目を向けよ、戦いが続く限りこの艱苦は永続する」、即ち日本が武器を捨てない限り、壊滅的攻撃は断じて中止されることはないのだと、書かれてあった。そしてもう1枚の写真は、長崎への原爆投下後の仮設の火葬場で、死んだ弟を背負った小学4,5年生の裸足の少年が、直立不動の姿で順番を待つ写真、ジョー・オダネルの「焼き場に立つ少年」である。
これが78年前の日本だった。

何故先生が、突然このような写真を送って下さったのか解らないが、先生も或いは、日本の未来に不安を感じておられるのかもしれない。

二度と、この写真にあるような時代を招いてはいけないと、戦争を知らない私でも、強く思う。

何もできない私だけれど、せめてこの大切な日本の平和を祈り続けたい。ウクライナの人々の一日も早い平安をも祈ろう。

あっ、雪の空が晴れてきた。

(2023年1月記)
審J2303625

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。