大石邦子の心の旅

小さな宿の講演会

福島県の会津に、柳津町という昔ながらの情緒豊かな門前町がある。今から1200年ほど前、高僧・徳一によって開かれたという福満虚空蔵菩薩圓蔵寺を中心として栄えた、仏教信仰の聖地のようなところである。

私たちが子どもの頃は、数え年13歳になると「13参り」と称して、お参りに連れてこられたものだった。

柳津は温泉の町でもある。そこに客室8室という「花ホテル滝のや」旅館がある。

旅館のご主人から講演依頼があったのは、2月頃だったろうか。そろそろ講演を辞めたいと考えていた私は、丁寧に断ってほしいと頼んだのだが、驚いたのは、この講演は旅館が個人的に主宰していて、既に500回になるという。その記念にとのことだった。

何ごとも始めることは容易いが、続けることは難しい。それを500回とは。月に1度なら41年、月に2度なら20年かかる。それを17年間でやり遂げていた。町おこしへの貢献であるのだろう。

講師は中央からも多く、経済、文化、歴史と、多種多様だった。聴く人も話す人も、館主夫妻の心意気に感動し、やがて常連となって「小さな宿の講演会」を成功させてきたのだと思う。

イラストイメージ館主は、小さな会だから続けられたと話された。内情を知れば知るほど私も打たれ、講演の日時を訊けば、何と亡母の命日ではないか。

命日に因み、私は講演を了承し、「母を語る」ことにした。以前、NHKラジオ深夜便の「母を語る」で話したことに重なりはしたが…。

私は若いときに車椅子の体になったが、なかなか現実を受け入れられずに、ことあるごとに母に当たり散らしてきた。

父は早く亡くなり、病弱な母は入退院を繰り返しながらも、私を残しては死ねないという一念であったと思う。私のためにひたすら生き続けてくれた。その母に、である。

後悔しながらも、面と向かっては真面なことが言えない。私がちょっと素直になれるのは、母との日課になっていた夕方の散歩の時だった。車椅子を押す母の顔は見えない。

「親孝行できなくて、ごめんね」

或る日、私はふと、背後の母に言った。

「何言ってるの、元気に生きていてくれる以上の親孝行なんてないよ。母ちゃん嬉しいよ」
私は、前を向いたまま泣いた。

それから間もなくだった。家の白木蓮が満開になり、桜が爛漫の春を告げ、母と私は縁側でお花見をした。一滴の酒も飲めない母と、半分位は飲める私は、100円の缶ビールで形だけの乾杯をした。母が笑っていた。

その夜だった。突然、母が私の胸に倒れ込んできた。両の腕は力なく垂れ、呼べど、叫べど、母の意識は甦らず、意識のない母の目元から一筋の涙がこぼれ落ちた。平成5年4月22日だった。

講演終了後、控室の私の前に、館主さんは、100円の缶ビールを一つ、そっと置いた。

浄土への母みちびくや花吹雪

(2018年5月記)
審J2005100

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。