大石邦子の心の旅

覚えていますか・あの歌を

コロナに明け暮れ、コロナに縛られた一年が終わる。自粛の日々の中で、栃木県での集まりを最後に、講演活動を辞めた。

少し気が楽になった。学歴もなく、特別の知識がある訳でもない私を、長年用いて下さった方々には感謝あるばかりである。

多くの人々と出会ってきた。特に忘れられないのは子どもたちとの出会いである。折にふれ、あの子たちはどうしているだろうと思う。想い出は、私の生きる力。

講演で一番多かったのは、学校だった。中学、高校、専門学校等である。学校は全国にあるので、旅行などする機会もなく若くして倒れた私は、講演依頼が来ると、便乗するように半分は旅のつもりで出かけていた。

イラストイメージ あれは山形県の中学校に招かれた時だった。この頃、学校が荒れていると聞かされていた。校長先生の苦労が忍ばれるように、頬はこけ、やつれ果てておられた。

入学式も、卒業式も、体をなさないのだと言った。講演会も妨害があるかもしれないと言われ、そんな~、と思った。町の関係者や、父兄も入られるとのことで、学校側も心配だったのだろう。

壇上に立ってみると、すぐに其れらしき子たちが分かった。背に龍の刺繍が施されたジャンパー姿の男の子が、私に背を見せて周りを仕切っていた。

時々振り返って私を見た。何度目か、私は胸の辺りで小さく手を上げた。ジャンパーを私に見せたかったような気がしたからだ。

彼らの騒めきに落ち着かなかったのは先生方で、何度も小走りに出てきては、子どもたちを注意した。しかし、700人の中の数人が遊んでいたとしても歩き回っているわけではない。むしろ、その度に出てきて注意する先生のほうが気になった。私は言った。
「先生、大丈夫ですから、掛けていてください」

間もなく、ジャンパーの子たちが席を立った。肩を揺らしながら体育館を出てゆくではないか。その背に向かって言った。
「待ってるよ~」

彼らの出て行った体育館に、何か安堵の空気のようなものが流れた。彼らは、こうした空気を感じ取っているはずだと、一瞬思った。

5分ぐらい経っただろうか、彼らが戻ってきた。席に着くのは、沽券に関わるとでも思ったか、体育館の後ろの床に寝そべって、講演の終わるまで、そこを動かなかった。

講演が終わると、全校生が立ち上がった。御礼に手話付きの歌を歌ってくれるという。女子生徒が前奏を弾き始めた時、何と後ろの彼らがゴソゴソと立ち上がったではないか。そして、一緒に手話で歌い出したのだ。

たとえば君が 傷ついて くじけそうに
なった時は かならず僕が 傍にいて
ささえてあげるよ その肩を

全てを終えて、車が校門に向かったとき、門柱の陰にいる彼らを見つけた。私は感極まって窓から腕を伸べると、彼らはその手を握りしめてきた。
私は言った。
「あの歌、忘れないよ!」

(2020年11月記)
審J2101502

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。