東京からの電話
会津も、いよいよ春の到来である。塀の高さほどあった雪も、殆どなくなった。大地が緑に埋もれるのも、そう遠い日ではないだろう。
去る3月11日に、東日本大震災の鎮魂と復興を願う、10年目の祈りの式典が各地で執り行われた。
あの何もかもが濁流にのまれてゆく、ドラマのような津波と地震の映像は、消そうにも消せない胸の痛みとなり、ただ福島県はそれだけでは済まなかった。
東京電力福島第一原子力発電所の爆発である。
何が何だか分からないまま、16万人もの人が着の身着のまま避難を余儀なくされ、10年を経た今もまだ、3万6千余の人が故郷に戻れずにいる。
あの日を境に、人生が一変してしまった人々が、この10年、どのように立ち上がり頑張ってこられたか。一方で、年月で悲しみに区切りがつけられようとも思えない。時折、悪夢のように、あの日を思い出す人も少なくないだろう。
状況は違うが、私もまた、一瞬の事故で人生を断ち切られた者として、とても他人事とは思えなかった。今でも私は、現実を受け入れられずに葛藤し続けた日々を思い出す。
12年の闘病生活を経て、私は車椅子にはなったが、地域で生きる覚悟の下に自宅に戻り、私なりに精一杯努力していた。右手が残されていた幸を思い、書くことを学び、勧められるままに講演などにも出た。
それが毎年、事故に遭った『9月17日』が廻ってくると、自分でもコントロールできない感情が襲ってきて、何もかも空しく、生きている意味が分からなくなり、人に会うのも話すのも嫌になり、一日中カーテンを閉ざしたままの室で、死を想った。
そんな私の心の闇を、光に変えてくれたのは、退院して8年目の9月17日、東京からの一本の電話だった。
嫌がる私に、母は強引に受話器を握らせ、耳に押しつけた。その向こうから、赤ちゃんの力強い泣き声がひびいてきた。
「芳子の赤ちゃんだよ。9月17日生まれの女の赤ちゃん…」
母は涙ぐんでいた。
「クーちゃん、赤ちゃんに、名前つけてやって」
弱々しい、妹の声がした。生まれた直後の電話だったと、後で知った。
私は声を上げて泣いた。自分の行動が、こんなにも大切な人たちに心配をかけていたのだと。妹は私のために大学まで中退し、病院のベッドの下に3年も寝起きして看病してくれた。
結婚後も私への気持ちは変わらず、いつか赤ちゃんを抱かせてやりたいと願っていたのだと、後に母から聞いた。
子どもはなかなかできなかったが、望んで叶えられるものでもなく、偶然であったとしても、授かるならこの日にと願っていたのかもしれない。そういう妹だった。
それ以来、9月17日は、私の希望の日となった。
幼子の成長にときめき、顔中口にして泣いたり笑ったりの姿に励まされ、いつしか、私の日常から、死にたい想いは消えた。
忘れがたい思い出である。
(2021年3月記)
審J2104013