大石邦子の心の旅

白い花の咲く家で

私は福島県の会津という所に住んでいる。小さな町の一番大きな交差点角の家で、庭には木蓮の大木がある。白い花が咲く。

私を支え続けてくれた母が、車椅子の私の胸に倒れこむようにして命を終えた日も、白木蓮の花が咲いていた。あれから十七年、花の季節は巡り、初夏の空に若葉が光る。

イラストイメージ 私は22歳の時に事故に遭い、運ばれた病院のベッドで意識が戻った時、寝返り一つ出来ない体になっていた。半身麻痺、そんな言葉を遠く聞いた。排泄の機能も奪われた。

何が何だか分からないままに、それからの十年に及ぶ入院生活が始まった。日夜なく襲う激しい痛みと痺れ。人前で裸になどなったことのない体に施される導尿の処置。私はもう、人間ではなくなったような思いだった。

人は何故、こんなになってまで生きていなければならないのか。何のために、この世に生まれてくるのか。身動きの出来ない病室の天井を見つめながら、来る日も来る日も、そのことばかり考えていた。分からなかった。

どうしようもない遣り切れなさから、母に当り散らした。当り散らしながら、夜毎、独り後悔の涙を流した。

「もう私の人生なんか、何もかも全て終りよ!」

母に向かって叫ぶ。母はそんな時、いつも涙ぐみながら言った。

「何もかも全て終わりっていうことは、何もかも全て、これから新しく始まるっていうことでもあるんじゃないの」

何を言っているのか、こんな体で何が始まるというのか。私は震えるような怒りのなかで、頭が破裂しそうだった。しかし、あの母の言葉は真実だったと、今は思う。始まったからこそ、私は今こうして生かされ、多くの人と出会い、語り合い、悩みにも暮れる。

母は、人は二度生まれなければならないのだと言いたかったのかも知れない。一度は母から、一度は、目の前の現実を受容れた時、そこから新たな人生が始まってゆくのだと…。

私が倒れた頃、日本には未だリハビリテーションの施設など殆ど無く、リハビリという言葉すら聞いたことが無かった。ノーマライゼーションなんて尚のこと。あれから遥かな歳月が過ぎ、日本の福祉も大きく変わった。

私達もその気になって努力すれば、そこそこ何とかなる時代になった。とても嬉しい。

母が亡くなってからも、私は周りの人たちに支えられながら一人で暮らしている。車椅子ながら毎年、旅にも出る。海外の障害者や高齢者が、どのように生きているのかを知りたくて、十数カ国を歩いた。念願のアメリカ大陸横断7千キロも車で走りぬいた。

喜びは、苦しみと背中合わせにあることも知った。ある日、ドミノ返しのように絶望が希望に変わることもある。避けられない現実なら受容れてこそ、新たな光が見えてくる。

そう思えるまでの遥かな年月が、今の私を支えているのかも知れない。

今日も風が光る。

審J2404018

大石 邦子 エッセイスト。会津本郷町生まれ。
主な著書に「この生命ある限り」「人は生きるために生まれてきたのだから」など。